第10話

読んではいけなかった

赤字を書いた人物が、十四年前に読んだものと、正しさの中へ隠した欲望を話し始める。

登場人物
コトハ・ソウマ・ミラ・アキト
読了時間
9〜12分
読み始める
赤鉛筆、第1号計画ファイル、古い封筒を前に視線を落とすアキト

アキトの赤字は、間違いを正すためだけのものではなかった。

そこには、コトハの物語を誰より先に見抜きたいという欲望が混じっていた。


01 / 8 戻ってきたソウマ

翌日、ソウマはレシートのカードを鞄へ入れたまま、アトリエへ戻った。

入口でコトハへ言う。

ソウマ

「続きを聞くのと、預け直すのは別です」

コトハ

「分かっています」

中央の机には、赤鉛筆、五冊目、第1号計画ファイル。

アキトが椅子へ座っている。

アキト

「最初から話す」

ミラ

「途中を、都合よく切らずに」

アキト

「今回は」

自分の言葉に、アキト自身が眉を寄せた。

切る側だった人が、初めて切らずに話そうとしていた。


02 / 8 許可の外側

十四年前。

アキトは、校正の仕事をする母に同行して青葉印刷文具店へ来ていた。

コトハの試し刷りは、読んでよいと言われていた。

コトハ

「そこまでは、覚えています」

アキトには、最初の一文だけが妙に強く見えた。

続きより古いような、別の声を持っているような文章。

理由を知りたくなった。

一行箱の資料は、鍵のかかっていない机にあった。

ミラ

「開いていたことと、読んでいいことは別です」

アキト

「分かっている」

ソウマ

「今は、ですよね」

アキトは否定しなかった。

封筒Bを開き、匿名の紙片を一枚ずつ読んだ。

そこで、レシート裏の一行を見つけた。


03 / 8 知っている一文

雨の日だけ、手紙を届けない郵便屋がいた。

コトハの冊子と同じ冒頭。

名前はない。

けれど、コトハが書いた一文ではないことだけは分かった。

アキトは本人へ直接言わなかった。

試し刷りの余白へ、赤鉛筆で書いた。

この一文を、私は知っています。

ソウマ

「出典確認のつもり?」

アキト

「当時は、そう説明した」

ミラ

「本当は?」

アキトは赤字を見る。

アキト

「見抜いたと知らせたかった」

コトハは、その一文を見た日のことを思い出す。

誰が書いたか分からない赤字は、店のどこからでも見られているように感じた。

正しい指摘は、名前のない告発になった。


04 / 8 安心した

アキト

「コトハが、うらやましかった」

全員が黙る。

アキトは弱点を見つけられた。

構成も、矛盾も、足りない理由も分かった。

けれど、自分では人の心へ残る最初の一行を書けなかった。

アキト

「その一文が借りたものだと分かったとき、安心した」

コトハが顔を上げる。

アキト

「同時に、俺だけが本当のことを知っていると思った」

ソウマ

「正しいから言っただけじゃない」

アキト

「違う」

正しさの中に、羨望と優越が混じっていた。

そこを切り離したふりをして、十四年黙っていた。


05 / 8 君の文章ではない

閉じた原稿箱に手を置くコトハと、赤鉛筆を離して視線を落とすアキトが机を挟んで向き合う。

数年後。

コトハは別の長編を書いた。

人物も町も変えたが、雨の日だけ動く人と、届けられないものが残っていた。

アキトは言った。

この部分だけ、君の文章ではないように見える。

コトハ

「内容は、当たっていました」

アキト

「当たっていたから、言ってよかったとは思っていない」

コトハ

「私は、あのあと書けなくなりました」

アキト

「知っている」

コトハ

「知っていて、何もしなかった」

アキト

「謝れば、正しかった部分まで撤回することになると思っていた」

コトハは悲しそうに笑った。

コトハ

「正しさを守る方が、私より大事だったんですね」

アキトは、否定しなかった。


06 / 8 拾った頁

赤字を書いたあと、アキトは作業場のごみ箱で、切り取られた制作記録の頁を見つけた。

原文 雨期B―17

続き 青葉コトハ

原作者確認前・外部配布不可

コトハが切った頁だった。

アキト

「捨ててはいけない証拠だと思った」

さらに封筒Bから、元の一行が書かれたレシートも抜いた。

ミラ

「持ち出した」

アキト

「証拠を守るつもりで、資料を奪った」

翌日戻そうとしたが、未配架棚は閉まっていた。

人に見つからず、忘れない場所として、第1号計画ファイルへ挟んだ。

そのまま、計画ごと止まり、店から遠ざかった。

ソウマ

「守ったって言いながら、誰にも戻してない」

アキト

「そうだ」


07 / 8 切るか、残すか

第1号計画ファイルの背は、不自然に膨らんでいる。

ミラが光へ透かすと、中に封筒らしい影が見えた。

取り出すには、厚紙の背を切り開く必要がある。

ミラ

「資料は元の形に戻りません」

コトハ

「中身を確かめるために、外側を変える」

十四年前、コトハは名の頁を切った。

アキトは資料を抜いた。

ミラは画像から薄い文字を消した。

今度は、何を切るかを四人で決める。

作業前の写真を残す。

切る位置を最小にする。

取り出したあとは修復する。

ソウマが最後にうなずいた。

ソウマ

「開けたいです。自分の一行か、確かめたい」


08 / 8 背の中

アキトは赤鉛筆を机の中央へ置いた。

誰の原稿にも届かない位置。

コトハがファイルを押さえる。

ミラが記録を始める。

ソウマが薄い刃を受け取った。

ソウマ

「俺が切っていいんですか」

コトハ

「あなたが決めたので」

刃を入れる。

乾いた紙の音。

数センチ開くと、薄茶色の封筒が滑り出た。

表には、鉛筆で書かれている。

雨期B

その中に、細長い紙と、切り取られた頁が重なっていた。

ソウマの手が止まる。

細長い紙の表には、旧・青葉印刷文具店の名。

裏側には、黒い字が透けていた。

十四年間、背の中で閉じていた最初の一行が、ようやく外へ出た。

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