第9話

コトハの原稿

五冊目を置いた人物へ、ソウマは『なぜ直接話さなかったのか』を問い返す。

登場人物
コトハ・ソウマ・ミラ・アキト
読了時間
9〜12分
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古い試し刷りと切り取られた頁を前に告白するコトハ

五冊目を置いたのは、コトハだった。

その答えより重かったのは、彼女がなぜ直接話せなかったのかだった。


01 / 8 置いた人

ソウマの問いに、コトハは目を逸らさなかった。

コトハ

「はい」

店内の音が消えたように感じた。

ソウマ

「四冊作った夜に、戸棚から出した?」

コトハ

「はい」

ソウマ

「次の日、一緒に驚いた」

コトハ

「驚いたふりをしました」

短い答えほど、逃げ場がなかった。

ミラは端末を開かない。

アキトも、言葉を補わない。

ソウマ

「どうして、普通に見せなかったんですか」

コトハは古い試し刷りへ手を置いた。

コトハ

「見せたら、私が何をしたかも話さなければならなかったからです」


02 / 8 先に反応させる

コトハ

「あなたが一文を見て何か思い出せば、私は言わなくても済むと思いました」

ソウマ

「俺の反応で、答え合わせをした」

コトハ

「はい」

ソウマ

「読んでいい範囲は聞いたのに」

コトハの指が、試し刷りの端を押さえる。

ソウマ

「知ってることは、俺に渡さなかった」

コトハ

「はい」

ソウマ

「ここなら、勝手に話を決められないと思ってました」

声を荒らげてはいない。

だからこそ、コトハは受け止めるしかなかった。

コトハ

「守るふりをして、自分が安全な順番を選びました」

ソウマ

「俺の順番じゃなくて」

コトハ

「はい」


03 / 8 十五歳の続き

コトハは未配架棚から、自分の平たい箱を持ってきた。

十五歳のころのノート。

最初のページには、雨期B―17の一行が写されている。

雨の日だけ、手紙を届けない郵便屋がいた。

その下に、コトハが書いた続き。

郵便屋は、届けなかった手紙を鞄へためていく。

雨の日だけ、その重さを確かめるため町を歩く。

コトハ

「初めて読んだとき、私のための一行だと思いました」

ソウマ

「誰が書いたか分からないから?」

コトハ

「誰のものでもないように見えたからです」

匿名と、持ち主がいないことは違う。

十五歳のコトハは、その違いを自分に都合よく忘れた。


04 / 8 切った頁

祖母は、試し刷りの最後へ制作記録を付けた。

原文 雨期B―17

続き 青葉コトハ

原作者確認前・外部配布不可

コトハは、その頁を切り取った。

ミラ

「なぜ?」

コトハ

「学校の小さな文芸冊子へ出したかったからです」

匿名の一行から始まったと書けば、受け取ってもらえないと思った。

自分の名前だけなら、自分の作品として読まれると思った。

ソウマ

「実際に出したんですか」

コトハ

「出す直前まで持っていきました」

封筒へ入れた。

あとは渡すだけだった。

その前に、赤鉛筆の文字を見つけた。

この一文を、私は知っています。


05 / 8 止められた本

赤字を見たコトハは、誰かが元の一行を知っていると分かった。

祖母へ告げ、冊子を取り下げた。

文芸冊子にも出さなかった。

コトハ

「自分で止まったように話してきました」

アキト

「違うのか」

コトハ

「見つかったから止まりました」

アキトの顔がわずかに動く。

コトハは古い試し刷りを閉じた。

コトハ

「正しいことをした人がいた。私は、そう思おうとしました」

ソウマ

「思えなかった?」

コトハ

「書いたもの全部を取り上げられたように感じました」

最初の一行は借りた。

でも、その先まで誰かのものになったわけではない。

当時のコトハは、それを誰にも言えなかった。


06 / 8 物語の近く

数年後、コトハは別の長編を書いた。

人物も町も変えた。

それでも、雨の日だけ動く人と、届けられないものが残った。

コトハ

「自分の原稿を開くと、借りた一行へ戻る気がしました」

だから他人の原稿を読むようになった。

好きな場所を探し、続きを待ち、見せない選択を守る。

それは人を助けるためだった。

同時に、自分の原稿へ戻らず、物語の近くにいる方法でもあった。

ミラ

「アトリエは、仕事であり、避難場所だった」

コトハ

「はい」

ソウマ

「それで俺の一文を残したかった?」

コトハ

「昔の自分が消したものを、今度は残せると思いました」

ソウマ

「俺に言わずに」

コトハはうなずいた。

同じ失敗を、別の優しい形で繰り返していた。


07 / 8 取り下げる

ソウマがコルクボードからレシートのカードを外し、ミラが現在の四冊を箱へ戻す。

ソウマはコルクボードから、レシートのカードを外した。

ソウマ

「一度、持って帰ります」

コトハは止めない。

ソウマ

「なくしたいわけじゃないです。でも、ここに置くかは考え直したい」

コトハ

「分かりました」

ミラ

「現在のデータは?」

ソウマ

「消さないでください。見たくないのと、なくしたいのは違うので」

現在の四冊は箱へ戻された。

第一号は、いったん取り下げる。

十四年前と同じ場所で、もう一度。

ただ今回は、作者自身が決めた。

ソウマが扉へ向かう。

五冊目の赤字を見て、足を止めた。

ソウマ

「これを書いた人は?」

コトハは首を振る。

コトハ

「私は知りません」

今度の答えは、嘘ではなかった。


08 / 8 次に話す人

アキト

「コトハは知らない」

全員がアキトを見る。

アキトは赤鉛筆を机の中央へ置いた。

アキト

「赤字を書いたのは、俺だ」

コトハが顔を上げる。

コトハ

「十四年前?」

アキト

「そうだ」

ソウマ

「“この一文を知ってる”って、どうして」

アキト

「元の一行を、読んだからだ」

ミラ

「許可を取って?」

アキトは、赤鉛筆から手を離す。

アキト

「取っていない」

コトハが切った頁。

アキトが読んだ匿名の一行。

封筒B。

十四年前、二人は同じ物語の別の場所で、互いに言えないことをしていた。

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