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記憶は、説明より先に手へ出る。
その夜、ソウマは初めて入ったはずの店で、誰にも教わっていない引き出しを開けた。
01 / 8 帰れない雨
夕方から降り始めた雨は、閉店時間を過ぎても弱まらなかった。
商店街の放送が、川沿いの道路の通行止めを告げている。
ミラ
「駅へ向かうバス、止まりました」
ソウマ
「俺の方もです。天気アプリ、今日は励ましすら言わない」
アキトは窓の外を見て、鞄を椅子の下へ戻した。
アキト
「待つしかない」
五冊目は薄紙に包み、机の端へ置かれている。
赤字のことも、鍵のことも、消えた七分のことも解決していない。
それでも今夜は、紙より先に人を乾かす時間になった。
コトハが湯を沸かす。
コトハ
「雨宿りの続きをしましょう」
ソウマはその言い方を、どこかで聞いた気がした。
02 / 8 四つのカップ
カップ麺は四種類。
ソウマが机へ並べた。
ソウマ
「公平に、じゃんけんで」
ミラ
「成分表で比較できます」
ソウマ
「それ、じゃんけんより争いになります」
アキトは一番地味な醤油味を取った。
コトハはほうじ茶を淹れ、最後にプリンを出す。
皿は五枚。
ソウマ
「また五枚ある」
ミラ
「予備です」
ソウマ
「この店、五個目に警戒心なさすぎません?」
ミラが一枚しまい、四人が笑った。
五冊目が現れてから、初めて普通の音が机へ戻る。
その直後、雷が鳴った。
店内の灯りが、一斉に消えた。
03 / 8 暗い店
印刷機も冷蔵庫も止まり、雨の音だけが大きくなる。
ミラがスマートフォンのライトを点けた。
ミラ
「ブレーカーを見ます」
コトハ
「足元に紙箱があります。ゆっくりで」
暗いアトリエは、昼間より奥行きが深く見えた。
ソウマは入口近くの壁へ向かう。
ソウマ
「毛布、出します」
そう言って、迷わず一番下から二段目の引き出しを開けた。
中には、生成り色の毛布が三枚。
全員がソウマを見る。
本人だけが、一拍遅れて気づいた。
ソウマ
「……合ってましたね」
隣の引き出しを開けると、活字の金属片が詰まっていた。
偶然では説明しにくくなった。
04 / 8 手が知っている
コトハ
「以前、来たことがありますか?」
ソウマ
「ないと思います」
ミラ
「“思います”?」
ソウマ
「レシートの日が初めてで。少なくとも、覚えてる範囲では」
アキトが引き出しの位置を見る。
アキト
「外からは見えない」
ソウマ
「毛布って、だいたい下にあるじゃないですか」
アキト
「隣は活字だ」
ソウマ
「今ので言い訳が終わりました」
コトハは毛布を一枚受け取った。
コトハ
「手が、迷いませんでした」
責める声ではなかった。
だからソウマは、笑ってごまかせなかった。
05 / 8 赤かったもの

ブレーカーが戻るまで、四人は入口近くへ集まった。
ソウマは扉の横にある傘立てを見る。
今は深緑だが、塗装の剥げた内側に赤が残っている。
ソウマ
「これ、前は赤かったんですね」
コトハ
「子どものころは赤でした」
ソウマ
「やっぱり」
言ってから眉を寄せる。
ソウマ
「……やっぱり?」
雨に濡れた赤い傘が何本も並ぶ景色。
背の低い机。
紙袋から覗く小さな封筒。
記憶はそこまでで途切れた。
ソウマ
「知らないはずなのに、知ってることが増えてきました」
コトハは傘立てへ触れた。
コトハ
「思い出すことと、説明できることは、同時ではありません」
その言い方も、経験から出たように聞こえた。
06 / 8 何もしないミラ
灯りが戻る。
ミラは端末を開き、消えた七分の履歴を表示しかけた。
そして、画面を伏せる。
ソウマ
「調べないんですか?」
ミラ
「今やると、答えを急ぎすぎます」
ソウマ
「ミラさんが?」
ミラ
「失礼ですね。自覚はあります」
ミラは五冊目の向かいへ、手ぶらで座った。
ミラ
「分からない状態にいるのが苦手なんです。条件を並べて、早く形にしたくなる」
ソウマ
「便利ですけどね」
ミラ
「便利と、本人が望んだことは別です」
コトハが、わずかに顔を上げた。
ミラはまだ、消した履歴について話さなかった。
ただ、話す前に整えないことを初めて選んだ。
07 / 8 紙と糊の匂い
夜が深くなる。
アキトは赤鉛筆を削っていた。
一定の速さで木を落とし、折れた芯だけを紙へ包む。
ソウマ
「赤って、怖くないですか」
アキト
「色が?」
ソウマ
「原稿にあると、間違いって言われる感じがする」
アキトの手が止まる。
アキト
「鉛筆が怖いわけじゃない」
ソウマ
「使う人?」
アキト
「使う理由だ」
それ以上は言わない。
ソウマは毛布へ顔を埋めた。
湿った紙と、古い糊の匂いがする。
その匂いも、知っている。
胸の奥で、鍵の外れるような感覚がした。
08 / 8 名前はいらない
雨の日。
赤い傘立て。
背の低い机。
小さな木箱。
ソウマの頭に、今度は声まで戻った。
名前は書かなくていいよ。
一行だけでも、残したいなら。
ソウマは目を開ける。
ソウマ
「コトハさん」
コトハ
「はい」
ソウマ
「この店、昔、紙を入れる箱がありませんでした?」
コトハは答えなかった。
その沈黙で、記憶が夢ではないと分かった。
アキトが赤鉛筆を置く。
ミラも端末を伏せたまま、コトハを見る。
長い雨音のあと。
コトハは、ようやくうなずいた。
コトハ
「ありました」
ソウマ
「何の箱ですか?」
コトハは奥の鍵付き戸棚へ目を向けた。
コトハ
「名前のない一行を預かる箱です」
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