作中作 / 記憶を売る店 2

顔を忘れた客

男は、亡くなった妻の顔を売った。そして今、十二枚の写真を見ても、どれが「会いたい顔」なのか分からない。

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1 海の色の瓶

病院の裏通りに、看板のない店がある。

雨に濡れたガラス戸の向こうで、小さな瓶がいくつも光っている。中に入っているのは薬ではなく、誰かの朝焼けや、返せなかった手紙や、もう呼ばれない名前だった。

灰色のコートの男は、毎週水曜にその店へ来る。

膝の上に古い写真立て。

海辺に二人。若いころの自分と、隣に立つ女。

女の顔だけが、白い霧のようにぼやけている。

「今週、見つかった分です」

白い手袋の店主が、棚の奥から海の色をした瓶を一本持ってきた。

男は代金を払った。

先週も払った。その前の週も。

栓を開ける。淡い光が額へ入っていく。

男は目を閉じた。

長い息。

「……砂浜で、あの人は靴を脱がなかった」

店主は何も言わない。

「それだけだ」

男は写真を見た。

顔は、まだ白い。

「でも、先週までは知らなかった」

店主が瓶を下げる。

「売った記憶を買い戻しても、売る前と同じ扉には戻りません」

何度も聞いた説明だった。

売ったあとの年月がある。忘れたまま選んだことがある。誰かから聞き直した言葉がある。それらが記憶の道筋を変えてしまうのだと、店主は毎週、同じ平らな声で言う。

男は毎週、顔が戻ると思って栓を開ける。

戻ってくるのは、顔のまわりの小さなものばかりだった。


2 死んだ人なら

「なぜ売ったのか、聞かないんですね」

男が言った。

「聞きません」

「私は自分で言いたい」

店主は手を止めた。

「妻が死んだあと、店をつぶしかけた。金が要った」

写真立ての縁を、親指でなぞる。

「亡くなった人なら、迷惑はかけないと思った」

言葉にすると、思っていたより短かった。

「ひどいでしょう」

店主は答えなかった。

「でも違った。傷ついたのは、残った私の方でした」

写真立ての裏に、古い字がある。

海は寒いね。

誰の字か、もう分からない。それでも、その一行だけは何度も指でなぞられて、紙が薄くなっている。

「昨日は、少し見えた気がしたんです」

男は写真へ顔を近づけた。

「笑っていた。たぶん」

少し間を置き、

「日記に、笑っていたって書いてあったから」

店主が初めて、男の顔を見た。

男は自分で気づいていた。

妻の顔を思い出しているのではない。

妻の顔を思い出していた自分の跡を、追いかけている。


3 描けた顔

男は鉛筆を出した。

写真の裏。

何度も描いて、何度も消した跡がある。

今日は、手が止まらなかった。

輪郭。目。少し下がった眉。口元。

三分で、顔ができた。

「できた」

自分の声が、店の中で大きく聞こえた。

店主が近づいてくる。

顔を見る。

「その顔は、どこから来ましたか」

男は答えようとして、止まった。

昨日、電車で向かいに座っていた女の人。

少し下がった眉。

同じだった。

男は鉛筆を持ったまま、しばらく動けなかった。

それから、消しゴムで消した。

紙が毛羽立つまで消した。

「……私が欲しい顔を描いたら」

声が震えた。

「妻の顔だったことにしてしまう」

店主は何も言わなかった。

ただ、消しゴムのかすを、白い手袋の指で払った。


4 残っているもの

しばらくして、店主が聞いた。

「顔以外には、何が残っていますか」

男はすぐに答えた。

「コーヒーは砂糖二杯」

一つ。

「左の靴ひもだけ、よくほどける」

二つ。

「怒ると台所を拭く」

三つ。

「風邪を引いた私に、りんごを薄く切りすぎた」

そこで初めて、男が笑った。

「向こうが透けるくらい薄かった」

店主の口元が、わずかに動いた。

「これは」

男は写真の裏を見せた。

海は寒いね。

「妻の字かもしれない。私の字かもしれない」

「分からないんですか」

「分からない」

男は笑う。

「だから、両方でいいことにしました。二人で寒いと言ったことは、たぶん本当だ」

顔はない。

でも、その人はいる。

全部なくなったわけではない。

だからこそ。

全部戻ることも、もうない。


5 探さない

「次に顔の瓶が見つかっても」

男は言った。

「知らせないでください」

店主は瓶を持ったまま、少しだけ黙った。

「買い戻せる記憶を、買わないのですね」

「今でも顔は欲しい」

即答だった。

「でも、顔を取り戻すために、今あるものまで『足りないもの』にしたくない」

店主はうなずいて、海の色の瓶を棚の奥へ戻した。

値札は、付けなかった。

男は鉛筆を持ち直す。

写真の裏。

「海は寒いね」の下へ、小さく書いた。

砂浜で、靴を脱がなかった。

書き終えて、写真立てを胸に抱かなかった。

鞄へ、丁寧に入れた。

「今日はもう、探しすぎないので」

鈴が鳴る。

雨は弱くなっていた。

男は帰り道で、りんごを一つ買った。

薄く切るつもりはなかった。

でも、切ってみるつもりだった。


この話で起きたこと

男は亡くなった妻の顔の記憶を売り、毎週買い戻しては、顔ではなく顔のまわりの小さなものだけを受け取ってきました。

今日、初めて顔が「描けて」しまい、それが昨日電車で見た他人の顔だと気づきます。欲しい顔を自分で作れば、妻の顔だったことにしてしまう。男はそこで、顔の瓶を探すのをやめ、残っているものを集めて暮らすことを選びました。

失ったものは戻りません。けれど、写真の裏には一行増えました。

創作に戻すなら

一話で完結させるときは、冒頭のフック(買い戻した瓶に顔はなかった)、前半に置く物(写真裏の字、消した鉛筆の跡、日記)、後半の反転(描けた顔は他人の顔)、回収(癖の列挙、写真裏の新しい一行、りんご)を、同じ話の中でつなげます。

世界観のルール(買い戻しても同じには戻らない)は、店主に説明させるより、瓶を開けさせて読者に見せます。そのルールにぶつかった人物が、何を諦め、何を持ち帰るかで、感情が動きます。

一行ワーク

主人公が取り戻そうとしているものは____。
その周りに、まだ残っているものは____。
取り戻すために、主人公が作ってしまいそうな偽物は____。

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あなたが取り戻そうとしているものの周りに、まだ残っているものは何ですか?

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