ホーム ›
作中作 / 記憶を売る店 1
記憶を売る店
店主が出した金額は、晴の今月の入院費より二千円多かった。まひろが売ると決めたのは、母が最後に残した約束だった。
読み始める1 母の言葉の値段
病院の裏通りに、その店はあった。
看板はない。雨に濡れたガラス戸の向こうで、小さな瓶がいくつも光っている。薬瓶に似ているが、中に入っているのは薬ではなく、誰かの朝焼けや、返せなかった手紙や、もう呼ばれない名前だった。
春野まひろは制服のポケットから診療明細を出した。
何度も折った紙。
数字は、折っても小さくならない。
「記憶を売りたいんです」
白い手袋の店主は、事情を聞かなかった。
「どの記憶を」
まひろは目を閉じる。
雨の日の病院の屋上。
風に髪を乱されながら、母は笑っていた。
弟の晴はまだ小さくて、売店のプリンを、母の分までほとんど一人で食べた。
母は、まひろにだけ聞こえるくらいの声で言った。
晴のこと、お願いね。
その言葉を思い出すたび、胸が痛んだ。
だから守ってきた。
だから、これを売ればいい。
一番苦しい記憶は、一番高い。
空の瓶に淡い黄色の光が満ちる。
店主が秤へ載せる。
金額を書いた紙を、まひろへ差し出した。
まひろは二度見した。
晴の今月の入院費より、二千円多い。
「売ります」
即答だった。
店主は契約書を出した。
「その前に、代償を確認します」
「母の顔を忘れるくらいなら、平気です」
強がりではなかった。
今月を越えられるなら、それでいいと思った。
「顔だけではありません」
店主は黄色い瓶を見た。
「言葉は残る場合があります。でも、その言葉があなたの中で持っていた意味は薄くなります。なぜ『晴を守らなければ』と思うのか。その理由です」
「それでも払えます」
「もう一つ」
店主はペンを置いたまま言った。
「この記憶は、あなた一人のものですか」
「私にだけ言いました」
まひろは、はっきり答えた。
「母は、私にだけ」
店主はうなずいて、契約書をまひろの前へ滑らせた。
署名欄が白い。
2 丸い字
ペンを持ったとき、スマートフォンが震えた。
晴からだった。
プリン忘れないで。
いつもの丸い字。
その下に、もう一件。
あと叔母さんに連絡した?
まひろは眉を寄せる。
昨日、病院の相談員に同じことを言われた。母方の叔母へ相談してみてはどうか。「必要ないです」と断った。
晴には、その話をしていない。
なのに。
電話が鳴った。
晴。
出れば、売れなくなる気がした。
まひろは通話ボタンを押した。
『姉ちゃん、今どこ』
「外」
『また一人でなんとかしようとしてる?』
「なんで叔母さんのこと知ってるの」
『相談員さん、病室にも来るんだよ。俺が聞いた』
まひろは腹が立った。
病室にいるくせに。
何もできないくせに。
そう言いかけて、やめた。
何も話していないのは、自分だった。
『母さんに、俺のこと頼まれた?』
晴が聞いた。
まひろは瓶を見る。
黄色い光の中に、母の声がある。
「……うん」
初めて、晴へ言った。
電話の向こうが静かになる。
『だから全部一人でやってんの?』
「全部じゃない」
『じゃあ誰に頼った』
答えられない。
しばらくして、晴が言った。
『俺も頼まれたよ』
「何を」
『姉ちゃんのこと。まひろのこと、お願いねって』
まひろは反射で、
「うそ」
と言った。
言った瞬間、自分の声に驚いた。
電話の向こうで、息を吸う音がした。
『……じゃあ忘れて』
「違う」
『姉ちゃんの記憶が正しいんでしょ』
「そういう意味じゃ」
『そう聞こえた』
電話が切れた。
まひろは、契約書の署名欄を見た。
白いままだった。
店主が静かに言った。
「共有された記憶は、片方の同意だけでは買えません」
「共有なんて」
「弟さんも同じ日を持っているなら」
店主は黄色い瓶を秤から下ろした。
「この瓶は、今日は売れません」
まひろは腹の底が冷えた。
売れなくなったからではない。
売れないと言われて、少しだけ、ほっとした自分がいたからだった。
3 二枚の紙
店主は白い紙を二枚出した。
「同じ日を、別々に書いてください。弟さんの分は、弟さんが」
「正しい方を決めるんですか」
「この店では調べません。あなたたちが欲しいのは、裁判の記録ではないでしょう」
まひろは紙を二枚、鞄に入れた。
病室のドアを開けると、晴は窓の方を向いていた。
「さっきの」
「いい」
「よくない」
まひろは椅子に座らず、立ったまま言った。
「うそって言った。ごめん」
晴は返事をしない。
「続き、聞かせて」
「たぶんだよ」
「たぶんでいい」
晴は少しだけこちらを向いた。
「母さん、姉ちゃん頑張りすぎるから、ちゃんと困らせろって」
「そんな言い方する?」
「母さんだし」
少し笑いそうになる。
まひろは紙を一枚、晴へ渡した。
二人は別々に書いた。
まひろ。
風が強かった。
母の髪が頬に貼りついていた。
「晴をお願いね」と言われた。
晴。
プリンの黒いところがおいしかった。
姉ちゃんが泣きそうだった。
「まひろのことお願いね」と言われた気がする。
母さんの手が冷たかった。
「最後、眠かった」
「記憶に追記するな」
二枚を並べる。
まひろの紙には母の髪。
晴の紙には母の冷たい手。
同じ日の母なのに、違う人みたいだった。
「一枚にまとめる?」
晴が聞く。
少し前なら、そうした。母の約束を正しく保存したかった。
「……まとめない」
「いいの?」
「違う方が、母さんが多い」
自分で言って、少し変な言い方だと思った。
晴が笑う。
「母さん増殖」
「そういう意味じゃない」
4 私にだけ
笑ったあとで、まひろは気づいた。
店で、はっきり言った。
母は、私にだけ言いました。
あれは事実の報告ではなかった。
私だけが頼まれた。
だから私だけが必要とされた。
その証拠を、誰にも触らせたくなかった。
だから「うそ」と言った。
「晴」
「何」
「私、頼まれたのが自分だけだって、ちょっと自慢だった」
晴はスプーンを持ったまま、しばらく黙った。
「知ってた」
「知ってたの」
「姉ちゃん、真面目すぎだから」
窓の外で、雨が弱くなった。
5 ひとりじゃ無理だった
まひろは廊下へ出て、スマートフォンを開いた。
叔母の名前。
発信ボタンは、契約書へサインするより重かった。
一度閉じる。
また開く。
押した。
三回目の呼び出しで、叔母が出る。
『まひろ?』
その声だけで、泣きそうになった。
泣くのが嫌で、説明より先に言った。
「……ひとりじゃ無理だった」
長い沈黙。
怒られると思った。なぜ今まで言わなかったの、と。
でも返ってきたのは、
『うん』
だけだった。
その「うん」で、本当に泣いた。
6 二つ
売店で、プリンを二つ買う。
一つは晴。
一つは自分。
病室へ入ると、晴が袋を見る。
「二つ?」
「私も食べる」
「姉ちゃんプリン食べるんだ」
「どういう意味」
ふたを開けてから、まひろは言った。
「叔母さんに電話した」
晴のスプーンが止まる。
「怒られた?」
「泣かれた」
「うわ。重い」
「お前もな」
晴が笑う。まひろも笑った。
晴はカラメルだけ先にすくった。
「行儀悪い」
「母さんにも言われた」
「じゃあ、約束半分ちょうだい」
「半分?」
「俺の分、姉ちゃんが持ちすぎてたんでしょ」
まひろは考える。
「半分は嫌」
「なんで」
「半分にしたら、毎日きっちり五十パーセント持つみたいだから」
「じゃあどうする」
「重い日に、持てる方が持つ」
「それ、姉ちゃんがまた全部持つやつ」
「じゃあ、お前が止めろ」
「了解」
しばらくして、晴が言った。
「今日の『うそ』、まだちょっと腹立ってる」
まひろのスプーンが止まる。
忘れたことにして、仲直りしたふりもできた。
でも。
「うん」
それだけ言う。
「ごめん」
晴もうなずいた。
母の言葉は、昨日と同じだった。
晴のこと、お願いね。
でも、その夜から、その言葉は「一人で守れ」という命令ではなくなった。
店で見た金額を思い出す。
高かったのは、記憶が苦しかったからではない。
たぶん、まだ手放していなかったからだ。
お金は増えていない。問題は何一つ解決していない。
裏通りの店には、黄色い光を入れるはずだった空の瓶が一本残っている。
店主はそれを棚へ戻し、値札を付けなかった。
この話で起きたこと
まひろが欲しかったのは弟のためのお金でした。
記憶を売る代償が「母の顔を忘れる」だけでなく「なぜ晴を守りたいのか」という意味まで揺らすこと、そして同じ日の約束を晴も受け取っていたことが分かり、その記憶は「一人で売れるもの」ではなくなります。
最後は魔法で問題を解決せず、まひろ自身が「助けを求める」という、今まで避けていた行動を選びました。「うそ」と言ってしまったことも、なかったことにはしていません。
創作に戻すなら
一話で完結させるときは、冒頭のフック(二千円多い金額)、前半に置く物(弟のメモ、「私にだけ」という一言)、後半の反転(弟も頼まれていた)、回収(二枚の紙、二つのプリン、値札のない瓶)を、同じ話の中で全部つなげます。
世界観のルールは、珍しい設定を説明するためではなく、
主人公が欲しいもの
と
本当に失いたくないもの
を同時には手に入れられない状況へ使うと、選択が生まれます。
一行ワーク
主人公は____が欲しい。手に入れるには、____を失う。
その____は、本当に主人公一人のものか?
この話とつながるガイド
この話から持ち帰る問い
あなたが一人で守っている約束は、本当にあなた一人のものでしょうか?
この話を読み終えた
読了を記録すると、未読の物語を次の候補として表示できます。
この端末にだけ読了状態を保存します。
この話から持ち帰る問い
学びの地図
物語を作る
記事をさがす
物語をよむ
マイノート